カタカナの「カミ」
関野先生:みなさん、自然とか神さまをどういうふうに捉えていましたか? 神さまってなに?
しゅんすけくん:ぼくは小さいときに幼稚園がキリスト教だったので、「神さまはいるものだ」って教わってきました。小学校は別にそういった学校ではないので、そのまま(無宗教で)きました。
関野先生:あなたにとって神さまは?
しゅんすけくん:人々のイメージの総体みたいなもの?
あおばくん:ぼくは神社に興味があって・・・「八百万の神さま」といっていろいろなものに神さまがいるっていう、人間にはできないことをするのが神さま、だと思ってます。(アイヌの)博物館に行ったときも、鳥は飛べて人間はそういう能力をもっていないから、人間と違う能力を持っているものが鳥も神って思っていたのかな、と。
関野先生:神さまは正しいことしかしない、という感じですか。
あおばくん:間違ったこともするし人間味もあるけれど、悪意がないというか、悪意を持って物事をするわけじゃない、と思います。
関野先生:そうするとやっぱり最初にいっていた自然と似てくるよね。野生動物たちもそう。悪意をもってなにかやるわけじゃなくて、人間に役立てば益獣だし、役に立たなければ害獣って言われる。そう考えると人間以外の動物と神さまってどこか似ていない?
あおばくん:自然に置きかえられるっていうか・・・ぼくらが意識しないうちに頭のなかで神だと思っていたものが、自然だったってことですかね。
関野先生:他の人はどうですか。
ゆうごくん:アイヌ民族の資料を読んでいて、かれらが「川を大切にしている」という記述がありました。それは神さまに直結するのか分かりませんが・・・神さまは水に近いのかな、と思いました。うまく言えないんですけれど。
山極先生:ぼくの知り合いの山尾三省っていう人は2001年に亡くなった屋久島の詩人なんだけれど、死ぬ2年前に沖縄の琉球大学で講義をしてその講義録が『アニミズムの希望』っていう本で、そのなかでぼくがすごく感動したのは山尾三省にとって神はカタカナの「カミ」なんです。カタカナの「カミ」っていうのはなにかっていうと「自分の好きなもの」「一定の念を感じさせるもの」「恐れを感じるもの」それは全て「カミ」だ、というんですね。
君たちはたとえば森を歩いていたり、海岸を歩いていてもいいし、何かふと自分を見つめているものに気づいたことない? それは相手は樹でもいいし、花でもいいし、セミでもいい。そういうものと向き合ったときに、自分が相手を見つめる、相手も自分を見つめているような感覚に陥るようなことはなかった? 何かそのときに、自分のなかで相手が特別なものと思える瞬間がある。そのときに君たちは「カミ」を感じているんだ。それはなぜそれが「カミ」なのかっていうと、じーっと見つめているとそのなかに自分のまことが見えてくる。自分がじっと見つめている対象に自分が映し出されてくる、つまり自分と向き合っているわけだよね。「カミ」っていうのはそういうことをもたらしてくれるもの。
だからいたるところにいるんだよ、それが彼の言っている現代のアニミズムであって、昔のように自然に囲まれている生活をしていなくても、現代でも「カミ」はいたるところにいる。それってぼくにはすごくしっくりくるんだよね。自分たちが予想もできない現状に、すごく大きな力をもった神さんがいて、ぼくたちがその神さんに支配されているんだ、じゃなくて、いたる所にカタカナの「カミ」がいて、そして自分を見つめている。しかも、その見つめていることを自分が感じているときに、自分というものの存在の本質が見えてくる、そういう感覚を君たち抱いたことあるかな?
でね、それはぼくも恥ずかしながらそういうことに何度も出会っているんです(笑)。関野さんもそうだと思う。それってすごく幸福な気持ちになる。なんとなく分かりますか、その感じ。
関野先生:世界には見えるものって限られているじゃない? すべてがぼくたちに見えているわけじゃない。でも、よくいうんだけれど、見えない大いなるものがあってそれがぼくたちを支配している、という考え方があるよね。これってたぶん一神教に近いんだと思うんだけれど、いま山極さんがいった「カミ」はそうではなくて、そこらじゅうにいる「カミ」さまがいるという考え方でそれは多神教。そこらじゅうに「カミ」がいる、非常に身近で、でも見えない。気配が感じられる人もいるし、感じない人もいる。
我々は何者なのか
山極先生:まあ、それを感じるのは君たち次第だってことだし、ぼくらがいまいちばん重要だと思うのは、自分とは何かということを考える機会をもつことだよね。それは何か対象があることによって自分というものを感じられる、そういうことが必要だよ、そういう経験をしてもらいたいな、と思う。アイヌという文化に接して、言葉というものに疑問を抱いた。もしくは文字というものがどうしてできたのか、というようなことを感じるのもそのひとつなんだけれど、そのなかで今までになかった出会い、その出会いの中に自分という存在が隠れていた、だから、人間って出会って気づくものなんですよね。その気づきというのが新たな自分を作ってくれる、それをみんな意識してやったほうがいいと思います。そしてその気づきを、いまここに4人いるけれど、仲間同士で話し合うことでそれはますます高められたり、おもしろくなっていくと思います。
関野先生:ぼくも、なぜ旅をするのか、なぜ探検をするのか、っていうと、まさに山極さんがいった「気づき」なの。何か行動したり観察したりすると何か気付く。気付きのいちばん大きいのは「眼からうろこが落ちる」っていう経験だけれど、そんなことは滅多にないんだけれど、小さな気づきは何かをすれば浮かびあがってくる、感じる――そうすると自分がなにか成長したような気がする。その繰り返しでぼくたちは生きていくんだけれど、「我々は何者なのか」っていうのはとても重要なことで、この地球上に3000くらいの民族がいるって言われているんだけれど、それぞれ文化が違うわけで、その比較で「その民族と自分たちとどこが違うんだろうか」というのも大切なんだけれど、もう一つ大切なことは、「ほかの生き物とどこが違うのか」ってことです。ぼくたちは特殊な生きものなんだけれど、どこが特殊なのか、このままでいいのか、このままでよくないとしたらどうしたらいいのか、ってことを考えなければならない。