文字の役割 ―― 異なる文化間の証文
こうせいくん:アイヌ語は言語ですが、文字がないじゃないですか。言語に文字があるかないかで社会に何か影響があるかどうか考えてみたんですけれど、たとえば昔の交易で文字を持っている日本人が持っていないアイヌ人から搾取したり、スペインやポルトガルでも南米で文字の有無を利用して侵略していた、そういうことを考えたとき、他の文化と接するか接しないかは、文字の有無で決まるんじゃないかな、とぼくは思ったのですが。そういったいざこざ(闘い)はたまたま性格的なものとかで起こることなのか、それとも誰か先に文字を発明した人がいたかどうかで起こることなんでしょうか。
山極先生:まあ、君の憶測はだいたい当たっていると思うよ。文字が最初にでてきたのはフェニキアと言われていて、それは商売のため、証文を残すためと言われているんだよね。最初は文字ではなく、まさに何かを表すシンボルだったかもしれないけれど。ぼくは文字を持たないアフリカの人たちとずっと付き合ってきたからその違いは非常に分かる。
文字がないとね、要するに言った言葉が全てなんだよね。証拠として残らない。「昨日、おまえあんなこと言ったじゃない」と言っても、文字に残っていないと誰も証明できないから、その場の言葉で相手を言い負かすことが真実になる。だから文字を持たない人たちのなかでは、話す力が強い人が「偉い人」、あるいは「その場を調停できる人」なのよ。証文がないからいくらでもウソが言えるわけだろ? たとえ話や自分がやったことを誇張して語ることによって、本当は自分がやったことだって自分がやっていない、と言い逃れることができるし、自分のせいなのに相手のせいだと言い換えることもできる。
だけど、文字としてそれが記録に残っていると「おまえさ、2か月前にこういうことを言ったじゃないか」と証拠だせるじゃないですか。これ、ものすごく大きな違いです。取引の現状だって文字として残せるわけだからね。それが前例となって、次の交渉がその上に積み重ねられていく。だけどそれが人々の記憶のなかにあるだけだったらさ、「2か月前にタマネギと人参をこれだけ交換したじゃない? 覚えてない?」と言われて、「いや・・・覚えてない」って言っちゃったらそれまでだよね。ところが文字として残っていれば「ほら、証拠がこうやってあるだろ」と言える。それが前例になって、それに準じた交渉しかできなくなる。
だからやっぱり文字っていうものは、違う文化が接触するときに、ひとつの文化のなかで常識といわれていたことが他の文化との間で常識とはならないような場合でも、エビデンスとしてそれが対等に同意できる形で使われ始めたんだと思う。そういった役割を考えると、文字は複数の文化が接触する場面で必要になったんだろうね。
文化っていうのは、同じ文化がどんどん拡大していったりしない。お金とか、シンボルとか、言葉ってものが文化間を通じて交換されていく。言葉はそれをキチンと担保する装置だったし、文字というのはそれを証拠立てる道具だった。
ただし、文字がないからと言ってその文化が劣っているわけではない。ぼくたちは言葉を駆使して社会を作っているわけで、文字を駆使して社会を作っているわけではない。社会は人と人との関係の集積だからね。その関係を集積するのが言葉であって、必ずしも文字ではない。で、君は文字を持っていないアイヌと接して何を感じた? それで君はアイヌ語ができるのか?
言葉の役割――文化をつくる
山極先生:言葉っていうのは音声を伴っているんだよね。しかもジェスチャーも伴っている。いま君たち4人いるけれど、同じ文章を言葉で語ってもそれぞれの音声で語ったら、その意味合いが違ってくるんだよ。文字はそれを均一化してしまう。文字は言葉の化石化。だから証文になるわけだよ。
君たちが語った言葉でも、それを文字にしてしまえば、誰が語ってもその言葉になってしまう。でも本来言葉というものは、それぞれが持っている音声によって、声の抑揚や大きさによってニュアンスが違ってくる。しかもその状況によって、だれがだれにその言葉を発したのか、あるいは前後関係はなんだったのか、お互いの関係がどうだったのか、未来への憶測がどうなっているのかでまったく意味が変わるんですよ。それが言葉。だから言葉っていうものは生きている、文字というものは死んでいる(化石だからね)。その化石を操って、われわれは何をしようとしているかっていうこと。文字によって何してるの?
山極先生:いや、それは言葉だってそうだろ? 文字っていうのはデジタルなの。言葉はアナログ。デジタルってことは、言った言葉の意味自体を伝えないんだよ。でもしゃべっている言葉っていうのは――いまこうやってぼくが時間を使って語りかけているように、音の時間的なつながり。これは音楽もそうだけれど、そこに意味を乗せてしゃべっているわけだ。そこにいろんな要素が入りこんでくる。さっき言ったように抑揚とか声の大きさとかジェスチャーとか、顔つきだとか。いろんなものがそのアナログのなかに入ってくる。でもデジタルってそういうものを入れる余地がない。文字化してしまえば誰が語っても同じようなデジタルの記号になってしまう。だから証文として使える。
そういうものをぼくたちは交換しながら証拠として使って、それがあたかもその人が言った言葉の総体だと思って暮らしているわけだれど、じつはそんなことはない。本当は生きた言葉で社会関係をつくるべきだし、現にそうやって作られてきたものが社会なの。
文字っていうものは後付けで、言葉の持っているさまざまなアナログ的要素を切り落としてしまった抽象してしまった、残滓に過ぎないんです。ほんとはね。そのへんを理解してもらえればな、と思います。
だからな、アイヌ語を文字として理解するのではなくて、ちゃんと話し言葉として君たちは勉強して理解する必要があるし、君たちが話している言葉もそうなんだよ、君たちも京都弁というものを駆使して暮らしているけれど、それは京都弁の分からない人たちにとっては、君たちが無意識のうちに伝え合っているニュアンスが伝わらないわけだよ。これが文化なの。
アイヌの人たちもぼくたちも毎日身体を使って表現しながら暮らしているの。それが言葉。まあ、そういうのを感じていただければいいです。関野さん来たから関野さんにバトンタッチしようか。