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ふみふみのふらっと東京散歩◆ 江戸の賑わいと吉原の名残を探して~浅草周辺~

明けましておめでとうございます。ふみふみです

今年も東京散歩をよろしくお願いいたします。さて、本日は荒川区・三ノ輪橋駅からスタート。吉原遊郭の名残を探したり浅草寺にお詣りしながら、ゴールの台東区・浅草駅を目指します。いつもより長い散歩になりそうです。

こちらが都電荒川線の三ノ輪橋駅。昭和な雰囲気が漂います

まずはかつて吉原遊郭があった場所を目指します。昭和通りという大通りに沿って、左手の国際通りに入っていきます。ひたすら歩くと少し街の雰囲気が変わっていきます。

途中ですごく歴史のありそうな天婦羅のお店発見!でもまだ食べちゃだめ…

浅草周辺ポイント①見返り柳

さて、しばらく歩いた先にさりげなく現れたこの木が最初のポイントです。

何も知らなければ普通に通り過ぎてしまいそう

旧吉原遊郭の名所の一つで、すぐ先の交差点には吉原大門の名が残ります。吉原で遊んで帰る客が後ろ髪をひかれる思いで、この柳のあたりから遊郭を振り返ったことからこの名がつけられました。京都の島原遊郭の門口の柳を模したそうです。

吉原遊郭は、1600年代の始めころ江戸の街に作られた幕府公認、遊女の居住区域です。急速に発展する江戸に散在していた彼らを吉原に集めたのは、取り締まるのと同時に税金の徴収にも便利だったという政治的意図がありました。

元々は人形町のあたりにあった「元吉原」が、明暦3年(1657年)に起きた明暦の大火により浅草方面に移転し「新吉原」と呼ばれるようになりました。

かつては山谷堀脇の土手にありましたが、区画整理に伴い現在地に移され、震災や戦災によって数代にわたり植え替えられているそうです。

この柳のすぐ前の道は五十間道という通りです。お上の命により「大門」につながる通りはS字カーブを描くものになり、遊郭の様子が直接見えないよう配慮されていました。

このカーブにそんな歴史が込めれているとは…

吉原は電気のない江戸の町にあっても一晩中明るく、季節の花が華やかに飾られて多くの人で賑わっていたそうです。単なる男性の遊び場だけでなく、町人文化の発信地としての側面を持っていたとも言われています。

とても華やかに見える裏側で、遊女の多くは貧しさから身売りされた女性たちであり、過酷な労働条件のもとで暮らしていました。遊郭の周りには「お歯黒どぶ」という深さ5mもの掘があり、遊女が逃げられないようになっていました(太田記念美術館の学芸員の方が書いているこちらの記事がとても詳しいので、興味のある方はお読みください)。

江戸の花街の名残を感じつつ、今度は浅草へと向かいます。再び国際通りに出て、大きな建物や人も増えていきます。

途中にあった合羽橋商店街の入り口。かっぱ橋道具街という問屋街で有名です

そのまま田原町駅を通り過ぎ、前から気になっていたペリカンカフェで一休み。「パンのペリカン」のパン、そして「浅草ハム」のハムをつかったカツサンドとカフェオレを注文しました。気づけば三ノ輪橋からここに来るまでに1.5時間ほどかかっていました・・・。

意外と食べ応えもあって大満足!

一息ついたら、来た道を戻って浅草寺へ。賑やかな通りの先に現れました、雷門。

観光客を待つ人力車の方々もたくさん待機していました
仲見世通りには修学旅行生と思われる子たちもちらほら。人形焼やおせんべい、お土産のお店が立ち並びます

浅草周辺ポイント②浅草寺

お寺の前にあるのは常香炉(じょうこうろ)。お線香の煙を浴びて穢れを落とし、清らかに観音様にお参りするための儀式なのだそう

浅草寺は1400年近くもの歴史がある観音霊場。飛鳥時代(628年)の3月18日、ご本尊が姿を現したことに始まります。
宮戸川(今の隅田川)のほとりに住む兄弟が漁をしている最中に仏像が網にかかり、何度川に戻してもかかることから兄弟はこれを持ち帰り、観音さまの礼拝供養に生涯を捧げることにしました。この仏像が浅草寺本尊にある聖観世音菩薩像と言われています。

その後、浅草は時代とともに拡大していく江戸市街地として吸収され、参詣・行楽・歓楽を目的とした人々があふれる東国随一の盛り場になりました。境内の様子は浮世絵や錦絵などに多数残されています。

歌川広重による、浅草雷門前(広重画帖より)
葛飾北斎20代のころの初期作品、浅草金龍山観世音境内之図 (名品揃物浮世絵9 北斎IIより)。当時の本堂の様子のようです
今も昔も多くの人で賑わっていたのですね
西日の差す境内

よく出てくる「金龍山」という山号は、観音様の示現ののち3日を過ぎると、天から金の鱗をもつ龍が松林の中にくだったことが由来だそうです。

御朱印にも金龍山とあります。詳しくはこちらを

最後に、仲見世通りを戻って吾妻橋方面へ向かいます。

アサヒビール本社ビルと金のモニュメント、東京スカイツリー、吾妻橋。金色のアレは「聖火台の炎」を表しているそうです

浅草周辺ポイント③隅田川

隅田川は、北区にある岩淵水門を起点に、東京の東部低地帯の沿川7区(北区、足立区、荒川区、墨田区、台東区、中央区、江東区)を南北に流れ、東京湾に注ぐ荒川水系の一級河川。流域人口は全体で約300万人に達する、世界でも類をみない大都市の中心部を貫く都市河川です。

江戸時代、隅田川は秩父から切り出した材木の運搬に使われるなど、江戸城下の建設を支える水運の要として重要な役割を担っていました。また、両岸には輸送物資の貯蔵や補完を行う「蔵」が立ち並び、江戸市民の経済・生活を支える大きな存在でした。

一方で、舟遊びや花火などレクリエーションの場として庶民に愛されるとともに、両国橋界隈や浅草など活気溢れる盛り場もあり、江戸の名所としてとても賑わいを見せていました。

隅田川と言えば隅田川花火大会。もともと1732年に飢饉などで亡くなった人々を弔うために行われたことが始まりで、鍵屋と玉屋という花火屋が腕を競い合いました。

広重「名所江戸百景」に描かれた両国花火(Wikipedia)

江戸時代の前期までは、隅田川が下総(千葉県北部)と武蔵(東京都と埼玉県の一部)の国境でもありました。両国の近くにある両国橋は、「両方の国にかかる橋」として名づけられたものです。もともと橋があまり架かっていなかったのが、明暦の大火以降増やされたそうです。

左手の船は漫画家の松本零士さんデザインの「ヒミコ」のようです

ちなみに江戸中心部から吉原に行く人々は猪牙舟(ちょきぶね ※深川江戸資料館にもありました)に乗って隅田川を北上していったそうです。

隅田川について詳しくはこちらこちらから。

隅田川支流、深川江戸資料館について過去の記事はこちらから。

隅田川近辺の歴史を見ていくと明暦の大火の話題に頻繁に遭遇し、歴史上非常に大きな出来事であり、転換点でもあったことが伺えました。そして江戸の華やかな面と、それだけではない一面も垣間見ることができたと思います。

ふぅ~、つかれた。今回の散歩はここまで・・・

本日の散歩メニュー

・スタート:三ノ輪橋駅
・目的地:浅草駅
・歩数:11,000歩くらい
・時間:寄り道や境内見学含め3時間くらい
・浅草周辺ポイント:見返り柳、浅草寺、隅田川

こんな感じ

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